2016/11/30

2016年11月29日

お稽古では全然目立たないフリして、人が見てると自分がいちばん!みたいに踊るんだから、と言われた。昔からそうなんです。私が通っていたバレエ学校の生徒はグラハム派とカニングハム派に分かれていた。この2つのメソッドがコンテの基礎レッスンにあって、どっちが好きかっていうだけの話。ちょっとおしゃれな子はどっちも支持しない隠れフォーサイス派か、マクレガー派(当時、新進気鋭!みたいな感じで流行ってた)だった。スクールパフォーマンスでは学生が自分でダンサーを選び、振り付けた作品を上演できるので、上級生に「お前どっち派?」と聞かれたらどう答えるかで舞台に立てるかどうかが決まる(と思っていた)。ちなみに私の場合、「カニングハム派だけど、本当はバレエがやりたいの。」と答えていたら、ホラーを題材にした身体を床に打ち付けて痛めつける感じのやつと、庭がテーマの全身タイツにトウシューズで逆立ちしたりする作品に選ばれた。

2016/11/25

2016年11月24日

やりたいこととやれることは違う。好きなことと得意なことは必ずしも一緒じゃない。どんなに素質があってもそれを伸ばしたいと思えるかどうかは別で、どんなに強い想いがあっても才能がなければ辿り着けないこともある。自分と比べてずいぶん小さな手や足を触っていると、たまに怖くなる。この柔らかな身体を、私のたった一言で、私のこの手で、壊してしまうかもしれないという恐怖である。教師という立場の人間に、バレエという道具を使って、壊された身体をこれまでたくさん見てきた。今の子どもたちは身体的に恵まれている子が多くて、その柔らかな時期にたっぷり手をかけて色々注いであげたいけれど、私のそういう気持ちが先走るとすぐに彼女らの心は逃げていこうとする。いくらキチンとバレエの型に身体をはめてあげても、心がそこになければ意味がない。私がもっとうまく使ってあげるから、あんたのその脚ちょうだいよ。10代の頃、そう願ったことを思い出した。憎しみにも似た、汚い感情だった。

2016/11/24

2016年11月23日

自分以外の誰かのために踊るなんていう、ダサくておこがましい行為とは無縁だと思っていた。こないだのジャズズは、そもそもあの舞台はお祝いの場であって個人的なアレコレを乗せるべきではないと頭で分かってはいたけれど、あの場を借りてでもやらなければならないことだと、私の身体がそうあることを選んだ。とはいえ結局のところ、いざ舞台に立ってみると毛穴まで見られてしまうんじゃないかというほど客席は近いし、久しぶりに浴びる強い照明とか、出番ギリギリまで手縫いしていたギンギラの衣装のこととか、6拍子とカウントのズレとか、振付を追いながら、魅せながら、私は私の踊りをどうにか終えることだけで精一杯だった。とても悔しかった。誰かのために踊る、なんていう境地にはまだ到底立てそうにもない。オマエの青臭い踊りなんぞ必要ない、オマエはこれから先も、まだまだずっと、踊らなくてはならないのだ。そう言われた気がした。